カミさんが、ろう学校で話したいことがあると、早めに家を出た。
昨日、カミさんがネットザーフィンしていると、難聴児を持つ父親のサイトがあり、
そのサイトで、
軽中度の難聴児を持つ父兄は、変な優越感があるのでは…
といった問題定義から意見を展開しているようだ。
そのサイト運営者のお子さんは重度難聴(100decibel以上)だそうで、
ということらしい。
カミさんのは、このサイトで書かれていることは、
健聴者から見て「耳でよかったね」と言われる事と同じだ…
という。
耳の障害は障害として非常に中途半端な扱いを受ける。
難聴児のいる家庭では、「耳が悪い」ということが他人に見えないことから、社会全般的に耳の不自由な人への配慮が足りないのでは…と、感じていることが多いと思う。
これと同じ扱いを、聞こえないグループからも受けるのか。ということで、カミさんの逆鱗に触れたのだ。
うちの難聴キッズは中度難聴で、今通っているろう学校の中では、たぶん一番良く聞こえているだろうと言われている。
確かにうちの難聴キッズは、ろう学校に通っている他の児童よりも多少だが「聞こえ」はいいのかもしれない…。しかしだ、喋る言葉はこの難聴キッズの障害を知らない健聴者が聞くととても聞き取れない。父親である自分が聞いてもわからないこともある(情けない)。
こんな状態で「あの子は聞こえがいいから」と言われても、安心する親はいないと思う。
ましてや優越感など…
難聴児の父兄が抱える子供に対しての不安は、
究極、この子を残して死ねるか
ということだと思う。
カミさんは、
同じ聞こえない子供を持つ親で、その大変さは十分解っているはずなのに、
「多少聞こえがいいからあなた達は良かったね。こっちは重度難聴なんだよ。」
といわれて、同じ聞こえない世界からも、中途半端な障害者扱いを受けることに、
憤りを感じたという事だ。
あくまでも問題は「聞こえる、聞こえない」ではなくて、
一人の人間として社会に出て生活を営めるかということなのだ。