明瞭に聞えないことにより、次に考えられるのは「明瞭にしゃべれない」ことでしょう。これは訓練や聞えの度合い、途中からの難聴によってかなり違うのかもしれません。私の子供は「先天性の難聴」ですから、明瞭な音声として耳には入っていないと思われます。ですので話し言葉にも明瞭性には欠けています。
この点でどうしても、難聴者が「言語障害」であるという認識も受けやすく、「話す」と言う意味での絶対語彙が子供の頃は少ないことでしょう。
しかし、問題は「聞えの明瞭性に欠ける事」によりコミュニケーションにいささか問題となる場合が多いようです。一時的にしろ、これは大きくなるにつれて見えてくる問題かもしれません。話がはっきり判らないけど皆が笑うから笑う…本当はもう一度聞き返したかったけど話が途切れるから…などの理由で「人とのコミュニケーションが上手くいかない」。こういった状況から聴覚障害は二次的障害=コミュニケーション障害を引き起こす場合もあるそうです。
実際に色んな難聴者(大人)に聞いてみると、学生時代の一番大変なのは「たくさんの不特定多数の人とのコミュニケーション」だったという人が多いのです。しかし、今の時代はメールやパソコンなどで「実際に聞いたり話したり」しなくても、コミュニケーションがとれる部分もあります。私がメールやコミュニテイで聾者や難聴の方と意見を交えても、皆さん知識も豊富で文章からだけなら聞えにハンデがあるとは全く判りません。
無理やりに「喋る」ことばかりを練習させている方もいらっしゃるようです。もちろん、話せるのに越した事はないでしょうから、それを否定はしません。ただ、その子供の聞えによっては、もしかしたら流暢には話せないという可能性もあります。お話が上手く出来なくても聞き取りが完全ではなくても、「読む・書く」という行為が大事だと思います。
私が今、実際に育てながら思うことは、誰でもにはっきり伝えられるのは「書き言葉」ではないか思っています。無論、手話もサインも使いますがこれは「それを知っている人にしか通用しない」とも思います。子供達同士のコミュニケーションは手話でも十分に楽しそうです。子供たちが楽しみ、共有する事が大事なように、社会にでて必ず伝わる「手段の一つ」としての「書き言葉」も大切に育てたいと思いませんか?
音声で話すことだけが「話し言葉」ではないことを私もこどもから学んでいます
有名な言葉
ヘレン・ケラー
(目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人を切り離す。)
キング・ジョーダン
(ろう者は聞くこと以外は何でもできる。)